真田幸村は戦国一の兵といわれ、徳川家康を最後の最後まで追い詰めたとされる戦国武将です。
幸村の生まれた頃の話や幼少期のことはよくわかっておらず、生まれた年すらはっきりしていません。ただ、幸村と言われていますが、本名は信繁です。
幼少の頃は秀吉の人質にだされていて、20代のころまで大坂城で過ごしていたと言われています。
そんな幸村の人気の秘密をせまっていきたいと思います。
もくじ
秀忠を翻弄!!父昌幸との上田合戦!!
九度山での退屈な蟄居
家康を追い詰めた!!決戦!!大坂の陣!!
父昌幸との上田合戦!!
1600年に関ヶ原の戦いが勃発します。幸村は父昌幸とともに豊臣方の西軍に味方しました。
秀忠は徳川家の重臣で固められた3万8千の大軍に対して、真田軍はたった2500程度でした。真田軍たちの役目は、秀忠が関ヶ原へ向かう足止めをすることでした。
秀忠と一緒にいる徳川家の重臣は、上田城への進行を止め、関ヶ原に向かうように促します。秀忠はこれを聞き入れず、圧倒的に有利な軍勢で真田家の上田城を落とそうとします。しかし、家康が以前に上田城を攻めた時と同様にうまく落とせません。
結局上田城を落とせなかった秀忠軍を幸村たちは、地形をうまく利用して散々に打ち破り、秀忠たちは撤退することになります。
九度山での退屈な蟄居
幸村たちが上田城で合戦を繰り広げている間に、関ヶ原では決着が付いていました。
徳川家に付いている兄信幸に説得された昌幸と幸村は降伏しました。
家康は上田合戦で苦しめられたために昌幸と幸村を死罪にしようとしました。しかし兄の信之が家康の重臣で義理の父の本多忠勝に助命を嘆願します。
このことでなんとか和歌山県の九度山に配流されることで落ち着きました。
九度山での生活は退屈で困窮していました。昌幸はこのような生活に耐えられなくなり、1611年になくなってしまいました。
幸村も蟄居で心身が衰えてしまい真田家が危い状況でした。
そんな中、豊臣家から参戦の招待状が届きました。
決戦!!大阪の陣!!
世間から忘れられたように過ごしていた、幸村は蟄居の生活で死ぬは嫌で仕方なかったので、招待状が来た時は死に所を得たように狂喜しました。
冬の陣で出城の真田丸を大坂城の南側に築いて徳川勢を圧倒します。実に徳川勢の8割は幸村たちのものであるといわれています。
しかし豊臣家と徳川家は和解し、休戦します。このとき家康は幸村に信濃の国を与えるといわれましたが、拒否しました。
翌年の夏の陣、幸村は数では圧倒的に劣るため、家康の首を狙うしかないと考えた。
家康の本陣にめがけて3回も突撃し、本陣を突き刺したと言われている。
家康の本陣が突き崩されたのは武田信玄に敗れた時以来であった。
しかし、数の差で幸村も討ち取られ戦死してしまった。
このとき徳川方の武将が
真田日本一の兵
と称えた。
まとめ
幸村がこれほどまでに有名になったのはやはり大坂の陣での大活躍です。
これほどまでに家康を追い詰めた戦国武将はなかなかいません。
九度山でもし幸村が亡くなっていたら今のような人気はないことは確実といえます。