立花宗茂という戦国武将をご存知でしょうか?
知らない人はぜひ知っていただきたい戦国武将です。
東の本多忠勝、西の立花宗茂
と言われるほど戦国武将の中ではかなり戦の強い武将でした。
ではなぜ立花宗茂が西日本一の武将とされているのかを掘り下げていきましょう!
もくじ
優秀すぎて養子になる!?
島津軍に攻められ父を失う
朝鮮出兵で大活躍
関ヶ原の戦いで敗れるが大名に返り咲く
優秀すぎて養子になる!?
宗茂は大友家の重臣高橋紹運の長男として生まれました。
14歳くらいの時に初陣であるにもかかわらず武功を挙げると、息子のいなかった大友家の重臣立花道雪が宗茂を養子にしたいといいます。紹運は宗茂しか息子がいなかったために断ります。
しかし、道雪は諦めず何度も紹運にお願いをし、紹運にももう一人息子ができたことから宗茂は道雪の息子となりました。
島津軍に攻められ父を失う
主君大友家は九州地方一の戦国武将、島津家と争っていた。1586年に島津軍が大友家を滅ぼすために紹運の城に進行してきた。紹運の軍勢はわずか700名程度で圧倒的に不利な状況であり、それゆえに島津軍に全滅にされてしまうという悲惨な戦があったのである。
このとき紹運も死んでしまった。
宗茂の城も島津軍に包囲されてしまうが、父を亡くした悲しみをバネにして、翌年1587年に豊臣軍が九州攻めに島津軍を追い詰めるまで粘った。
この功績に秀吉も
宗茂は忠義も武勇も九州一よ
と褒めた。
そして秀吉は宗茂に13万石の大名に取り立てるのであった。
朝鮮出兵で大活躍
1592年の文禄の役で、秀吉に名をうけ朝鮮出兵をした。
現在のソウル付近でわずかな軍勢ながら明の大軍を破った。
それまでは日本軍が不利だった状況から持ち直したために、秀吉は明と和解することにした。
この朝鮮での活躍が秀吉に認められ、西日本一の武将と全国に名を轟かすことになった。
関ヶ原の戦いで敗れるが大名に返り咲く
宗茂は石田三成の西軍に参加する。しかし、京極高次の大津城を攻めている間に関ヶ原の戦いで西軍が敗れてしまい、帰国する。
自分の城に戻った時に加藤清正や鍋島直茂などの東軍に攻められてしまい、領地を取りあげて浪人になった。
しかし宗茂の才能を信じた家康に取り立てられ、のちに大阪の陣で大活躍をした。
また、天草四郎などのキリシタンが起こした島原天草の乱を鎮めることに成功している。
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まとめ
宗茂を好きになれましたでしょうか?宗茂は戦も強いですが、裏でも苦労したことが多い苦労人の武将でもあります。
宗茂は本多忠勝と並びとても強いことで有名な戦国武将なので、ぜひ押さえて置いて欲しい武将です。