松永久秀という戦国武将をご存知でしょうか?
戦国ファンなら誰もが悪人戦国武将と言うであろう戦国武将であり、同時に謎の多い戦国武将あります。
そんな松永久秀が本当に悪人戦国武将なのか紐解いていこうと思います。
もくじ
松永久秀の出生について
将軍を殺害した!?
東大寺の焼き討ち!?
信長を裏切り爆死!?
松永久秀の出生について
久秀の出生についてははっきりしておらず、生年月日もわかっておりません。出身地は山城国(京都府)と言われております。武家の生まれではありませんでしたが、土豪(地主)の生まれであったために、三好長慶に取り立てられて武将になります。長慶のもとでは右腕といわれるほどの働きをしたそうです。
将軍を殺害した!?
長慶がなくなったあと、久秀は三好三人衆とともに三好家を支えていました。
久秀の息子久通と三好三人衆は将軍足利義輝の二条城に攻め込み、義輝を殺害しました。
このことで久秀が将軍義輝を暗殺したようになっていますが、実際には息子たちによって殺害されていたようです。
これにより久秀は将軍殺しの悪人の印象が世間に広まります。
東大寺の焼き討ちした!?
久秀が行った悪事として東大寺の焼き討ちがあげられます。
久秀が長慶の後を継いだ義継と共に足利義昭を将軍にしようとしたのに対し、三好三人衆は足利義栄を将軍にしようとしました。このことによって、三好三人衆と久秀が戦を起こすことになります。
この合戦のときに、三好三人衆が東大寺に陣を構えました。久秀の軍が三好三人衆に火を放ちましたが、間違えて東大寺を引火させてしまったようです。つまり久秀は狙って東大寺を焼き討ちにしようとは思ってもいなかったということです。
しかしこのことで後の時代の人たちが久秀に対して悪いイメージを持つようになりました。
信長を裏切り爆死!?
その後力をつけた織田信長に仕えます。ただ信長には敵が多く、将軍義昭にも反抗していたために、久秀は信長に対して反旗を企てます。久秀は武田家、朝倉家、浅井家、三好三人衆と協力して信長を討ち取ろうとしました。しかし信玄が病死し、朝倉家、浅井家は信長によって滅ぼされたために久秀は降伏します。これが1度目の裏切りでした。
信長のもとにまたついた久秀ですが、役職に不満がありました。そのため上杉謙信や毛利輝元と協力して信長を討ち取ろうとします。信長はこの謀反をやめるように久秀に通達しますが、久秀は聞き入れませんでした。これにより信長が攻め込み、久秀は信貴山城に籠ります。信長はこのとき久秀に対して、茶器の名器を差し出せば許すといいます。しかし久秀はこれを無視し、茶器とともに爆死したと言われています。
まとめ
このような久秀の変わった行動が後の江戸時代の人々により悪人イメージがつけられていったと考えられます。それでもあの信長を裏切るのはかなり変わった人物であると言えます。