大河ドラマ「軍師官兵衛」で有名となった黒田官兵衛は天才軍師として、竹中半兵衛とともに豊臣秀吉をささえました。
官兵衛はかしこく有能でした。しかし運がついていなくて、天下を取ることができなかった人物であります。
そんな黒田官兵衛の生き様をみていきましょう!
もくじ
黒田官兵衛の誕生
監獄に閉じ込められる
秀吉を天下人へ押し上げた
関ヶ原の戦いで夢を見る
まとめ
黒田官兵衛の誕生
黒田官兵衛は1546年に播磨国に生まれました。本名は黒田孝高といいます。
父黒田職隆は播磨城主の小寺氏に仕えていました。
官兵衛は22歳の時に家督を継ぎます。その頃、中国地方の毛利輝元と勢力を拡大していた織田信長に挟まれていたため、主君の小寺氏に信長につくようにつたえました。その後豊臣秀吉の家臣となります。
監獄に閉じ込められる
秀吉についた官兵衛は竹中半兵衛という軍師とともに秀吉を支えて合戦に参加していました。
あるとき信長の家臣荒木村重が裏切ります。官兵衛はこれを説得するために村重の居城有岡城に向かいました。しかし、官兵衛は村重に捕らえられてしまい幽閉されます。
説得に行った官兵衛がなかなか帰ってこないため裏切ったのではないかと思った信長は、官兵衛の息子松寿丸(黒田長政)を殺すように豊臣秀吉に命じます。
このことをみていた半兵衛が官兵衛が裏切るはずがないと思って、松寿丸を殺さず、他の子どもの顔を信長に差し出しました。この半兵衛の見事な働きにより松寿丸が助かました。
のちに有岡城が陥落し、官兵衛がでてくると半兵衛に心から感謝したと言われています。
なお、官兵衛は牢獄にいたせいで足が不自由になってしまいました。
秀吉を天下人へ押し上げた
官兵衛が秀吉に仕えてから何年か経った時、本能寺の変が起きました。このとき官兵衛は秀吉について毛利攻めをしていて、本能寺からは遠いところにいました。
しかし、官兵衛はいまこそが天下取りのチャンスである思い、秀吉にすぐに明智光秀の首を取りに行くように進言しました。
秀吉は官兵衛の助言通りにすぐに毛利氏と和解すると、8日ほどで中国地方から京までおよそ220kmを引き返しました。これを中国大返しと言われています。
関ヶ原の戦いで夢を見る
秀吉が亡くなったのちに関ヶ原の戦いが起こります。官兵衛はすでに隠居しており、家督を息子の黒田長政に任せていました。長政は徳川家康に味方し関ヶ原に参戦していた。
そのため官兵衛のいる中津城がもぬけの殻になってしまう。そこで官兵衛は貯金をはたいて九州の浪人9000人を集め、九州を制圧して天下を取ろうと企みました。
官兵衛は九州で西軍についた大友家と合戦を行います。しかし、関ヶ原の戦いがすぐに終わってしまったために、官兵衛の野望も虚しく終わってしまいました。
まとめ
優秀な官兵衛でしたが不運に見舞われ天下を取れませんでした。そんな官兵衛にはこんな逸話があります。
秀吉がある若侍から
「なぜ黒田殿に小禄しか与えないのですか」
と聞かれると、
「あの男に何十万石も与えたら天下をとるわ!」
といったそうです。
ここから官兵衛の実力がいかにすごかったがうかがわれます。