豊臣秀吉を支えた戦国一の頭脳!!竹中半兵衛!!

天下人豊臣秀吉にはたくさんの名将がついていました。その中でも有名なのが竹中半兵衛という軍師です。

半兵衛は豊臣秀吉がまだ織田信長に仕えていたときに活躍した戦国武将です。

そんな天才といわれた、竹中半兵衛の活躍をみていきたいと思います。

 

もくじ

美濃生まれの竹中半兵衛

主君の稲葉山城の乗っ取り作戦!?

盟友の黒田官兵衛救出!!

まとめ

 

美濃生まれの竹中半兵衛

竹中半兵衛は1544年に美濃(岐阜県)に生まれました。本名は竹中重治といいます。

竹中家は美濃守護の土岐氏の家臣でありました。その後、美濃国で台頭してきた斎藤氏に仕えました。

 

主君の稲葉山城の乗っ取り作戦!?

半兵衛の前半生で有名なのが稲葉山城を乗っ取るという事件であります。稲葉山城は主君斎藤龍興(斎藤道三)の居城で、これを乗っ取りました。

 

では、なぜ半兵衛が乗っ取ったのか?

 

主君龍興が政治に無関心で家臣たちとの関係も浅かったことが原因です。

そこで半兵衛は龍興を諫めるためにわずか17人で稲葉山城を乗っとりました。

半兵衛は野心や領地拡大にそれほど興味がなかったようで、乗っ取ったあとはすぐに斎藤家からでて浅井家につきます。

 

盟友の黒田官兵衛救出!!

織田信長は半兵衛が稲葉山城を乗っ取ったことを知り、半兵衛を家臣にしたいと思いました。そこで豊臣秀吉(羽柴秀吉)に半兵衛の勧誘を命じました。

秀吉は三顧の礼(上の位の人が下の位の人に三度出向いてお願いすること)を行なって半兵衛を説得しました。

半兵衛はこのとき秀吉の人柄に惹かれ、信長ではなく秀吉に仕えようと思ったそうです。

しかし、実際にはこの事実はなく、江戸時代の人々によって創作された話であることが濃厚です。

その後、黒田官兵衛も豊臣秀吉に仕えます。半兵衛と黒田官兵衛はともに秀吉に仕えていて、親しい関係であったようです。この2人を後の人たちは両兵衛と言われます。

実際には2年ほどしか一緒に仕えていませんでした。2人の実力や親しさから後の人々が称えてこのように呼んでいるのだと思われます。

 

あるとき信長の家臣荒木村重が謀反を起こします。村重は有岡城に立て籠り、その説得に官兵衛が行くことになりました。

しかし、官兵衛は村重に捕らえられ投獄されてしまいました。このことで官兵衛は信長と連絡が取れなくなって、官兵衛が裏切ったのだと思い込み激怒します。

そこで信長が秀吉に官兵衛の息子松寿丸(黒田長政)を殺すように命令します。

この時半兵衛は秀吉が裏切るはずはないと考え、別の子ども首を信長に差し出し松寿丸の命を救ったのでした。

その後半兵衛は陣中で亡くなった後に、有岡城から出てきた官兵衛は半兵衛に感謝してもしきれなかったといわれています。

 

まとめ

竹中半兵衛は武士ならば陣中でしなればならぬと、病気にもかからず最後まで戦場にいた誠実な人物でした。また官兵衛や他の秀吉の家臣との情もあつい人物であったために、36歳という若さで亡くなったのは本当に惜しいことです。

 

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