あなたは、戦国の世を生きた天海という僧侶をご存知でしょうか?
史実に残っていることとしては家康の宗教的参謀であり、江戸に寛永寺を開きました。また、1616年に家康が死去するときの遺言を聞く役割を果たしたともいわれています。
しかし前半生は謎に包まれており、正体は明智光秀でとも言われております。また、天海は108歳までいきたとされる怪人物です。
このことが果たして本当なのか検証していきたいと思います。
もくじ
根拠1、光秀が山崎の戦いで殺されていないのか?
根拠2、比叡山に光秀の文字!?
根拠3、日光に明智の地名?
根拠4、徳川家光の乳母春日局は光秀とつながりがある?
根拠1
光秀が山崎の戦いで殺されていないのか?
本能寺の変が起きたのは夏で、光秀の首が夏の暑さで傷んでおり、きちんと本人確認ができていなかったといわれております。すなわち光秀の影武者が秀吉の前にだされて、光秀は出家したのではないかという説です。
根拠2
比叡山に光秀の文字!?
本能寺の変以降、比叡山に、
「光秀」
の名で寄贈された石碑があります。生き延びた光秀は僧になって、信長が焼き討ちをした比叡山の復興に尽力を尽くしたのではないかという説です。
根拠3
日光に明智の文字?
天海が明智の名前を残すために、家康のお墓がある日光に明智平という地名をつけたといわれています。天海の正体は明智光秀なのかと疑いたくなるような天海の行動ですね。
根拠4
徳川家光の乳母春日局は光秀とつながりがある!?
春日局の出生は、明智光秀の重臣斎藤利三が父です。その後山崎の戦いで、光秀が敗れると父利三は捕まって処刑されます。当然春日局も終われますがなんとか逃げきりました。ここからは詳細が不明ですが、浮浪していると乳母の募集を見つけ江戸城で働いたと言われています。
明智光秀の家臣の出自を持っている人物を乳母にすることを徳川家が認めていることになるため、家康が天海の正体を知ってなのかという説です。
まとめ
本能寺の変、後の山崎の戦いで殺されたかに思われた明智光秀は生き延びて僧侶天海になったという歴史ロマンあふれる説です。
これは本能寺の変の黒幕が徳川家康であれば、かなり辻褄の合うような話ではないでしょうか?家康が自分のために働いてくれた光秀をかばっているようにもみえます。