苗字が漢字4文字の珍しい長宗我部元親とはいったいどんな人物でしょうか?
四国地方を一代で平定した長宗我部元親ですが、天下人豊臣秀吉には降伏せざるを得ませんでした。
そんな長宗我部元親の生涯を見ていきましょう!
もくじ
長宗我部元親の誕生
四国を平定!
秀吉に降伏し、様々な合戦に参加
まとめ
長宗我部元親の誕生
元親は1539年、土佐(高知県)に生まれました。この頃の長宗我部氏は城を取り返して勢力を盛り返していた時期でした。
幼少期の元親は色白で物静かな大人しい少年だったので「姫若子」と呼ばれていました。これは周り家臣が武将として元親を期待していなかったことを表しています。
しかし、初陣のときには槍をもって突撃し大活躍をし、家臣たちを驚かせました。これをみた家臣たちは元親のことを「鬼若子」と呼びました。
悲願の四国を平定!!
長宗我部氏のいる土佐には多くの武将がいました。これを「土佐七雄」といいます。父国親がなくなると、元親はこれらの武将を順に12年かけて土佐を統一しました。
土佐統一後、四国での勢力を拡大していた元親は、織田信長と同盟を結びました。しかし、突然信長が同盟を反故し、阿波(徳島県)の三好康長と同盟を結んで四国征伐に打ってでます。
信長の裏切りによって、窮地に立たされた元親でしたが、本能寺の変によって存続の危機を免れました。
その後は阿波、讃岐(香川県)、伊予(愛媛県)の順に平定し、1583年に無事四国統一を成し遂げたのでした。
なお本能寺の変には元親が関係している説があります。元親の正室は明智光秀の家臣斎藤利三の娘であり、光秀と関係のある人物です。また、光秀は信長と元親の同盟を取り持った仲介人でしたが、信長の反故により面目をつぶされてしまいました。これらのことから光秀は信長を裏切ったのではないかと言われています。
秀吉に降伏し、様々な合戦に参加
四国を平定した元親でしたが、次なる強敵豊臣秀吉が待ち受けました。1585年、秀吉は弟豊臣秀長を派遣して四国を制圧しようとしました。元親は豊臣の圧倒的な力の差に押し負け、降伏しました。10年以上かけて四国を平定した元親は土佐一国に戻されてしまうのでした。
その後は秀吉の支配下のもとで島津攻めや小田原攻め、朝鮮出兵にも参加しました。秀吉が亡くなったあとは家康に近づきますが、1599年に病死してしまいました。
まとめ
秀吉に攻められて四国を失った元親が悔しそうにしていた話があります。
秀吉が聚楽第で宴会をしたとき、秀吉が元親に
「今から四国の覇者を望むか、それとも天下に心をかけたるか」
と聞きました。
元親は
「天下に心をかけ候。ただ悪しき時代に生まれて天下の主になり損じて候」
といいました。
元親は実力では秀吉には劣らないと考えており、元親が内心悔しく思っていることがわかる話です。