鬼島津!!九州をとるも秀吉に降伏…

島津ときいて何を思いうかべるでしょうか?

島津の家紋「丸十」や「鬼島津」といった異名でしょう?

島津家は本当に戦が上手で、鬼島津と言われたのも無理はありません。

では島津家当主の島津義弘はどのような運命をたどったのかを見ていきましょう!!

 

もくじ

島津義弘の誕生

釣り野伏せ戦法

九州を勝ち取るも…

まとめ

島津義弘の誕生

島津義弘は1535年に薩摩(鹿児島県)大名島津貴久の次男として生まれました。貴久の息子、義久義弘歳久家久は個性的な4兄弟であり、とくに長男義久と次男義弘は有名です。1566年に義久が家督を継ぐと、義弘は補佐役として兄をささえました。

 

釣り野伏せ戦法

義久と義弘はともに猛将であり、義弘はわずか300の兵で敵軍3000を撃ち破る木崎原の戦いがあります。このとき作戦こそ有名な釣り野伏せです。

これは、全軍を3隊にわけて、そのうち2隊を左右に伏せさせます。中央の1隊が正面から敵軍と戦い、敗走を演じて退却します。敵を自分の陣地に誘い出すと、伏せていた2隊が現れ攻撃するという作戦です。つまり敵を釣りのように食いつかせ、左右に2隊は野伏せということです。

この作戦は実際には非常に難しく、信頼関係がないと成立しない作戦でした。しかし、義弘と義久は何度もこの作戦を成功させました。

 

九州を勝ち取るも、、、

その後の島津家はつよく、耳川の戦いで大友軍を正面から受けて壊滅に追いこみました。続く沖田畷の戦いによって北九州の龍造寺隆信を打ち破り、九州統一は目前に迫っていました。

しかし、耳川の戦いで敗れていた大友宗麟は大坂の豊臣秀吉に助けを求めます。そこで秀吉は島津家に対して大友家の領土へ侵攻することをやめるように伝えます。これを島津家は拒否したために秀吉は九州攻めを行いました。

はじめ秀吉は毛利氏や長宗我部氏を派遣していたのですが、大友氏や長宗我部氏が戸次川の戦いで敗れてだことを知り、自らも出陣することに決めました。

豊臣軍は秀吉と弟秀長が二手にわかれて総勢20万をこえる軍勢で九州を攻め寄せました。

これまで少数で大軍を破ってきた島津家でしたが、これにはなすすべなく降伏しました。島津家は薩摩と大隈(鹿児島県)の2カ国が与えられることになります。九州統一まであと一歩のところだったので、非常に悔しかっただろうと思います。

その後、義弘は豊臣の配下として朝鮮出兵関ヶ原の戦いに参加しました。

 

まとめ

鬼島津といわれたのは、朝鮮出兵のときでした。義弘のあまりの武勇さに朝鮮兵が「鬼島津」といったのが始まりだそうです。また義弘は、関ヶ原の戦いでも300の兵で東軍に突っ込み狂気じみた戦いをし、島津軍の生き残りは80人程度しかいなかったと言われています。まさに鬼島津として名に恥じない戦いぷりです。

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