石田三成といえば、天下分けめの関ヶ原の戦いで徳川家康と戦ったことで有名な武将であり、また豊臣方に忠誠を尽くすが、周りの武将には嫌われてしまって、関ヶ原で裏切られて敗れ去った武将として認識されている方が多いのではないでしょうか?
ではどうして三成が豊臣方にこれほど忠誠を尽くし、周りの武将から嫌われたのかをみていきましょう!
もくじ
石田三成の誕生と秀吉との出会い
秀吉のもとで様々な任務をはたす
豊臣家臣の武断派と対立!!
天下分けめの関ヶ原の戦い!!
まとめ
石田三成の誕生と秀吉との出会い
石田三成は1560年に近江(滋賀県)に村の土豪の子として生まれました。幼少期は寺の子として過ごしていました。
三成と秀吉との出会いは、あるとき長浜城主である豊臣秀吉が鷹狩りの途中、休憩のために寺を訪れたときに、三成が3杯のお茶をだしたことでした。
3杯のお茶というのは、1杯目がぬるめのお茶を多めに、2杯目を少し熱めのお茶を少し多めに、3杯目は熱いお茶を少量だしたことを指します。
この三成の気配りに秀吉は感心をうけて、気に入ったと言われています。
ただ、この話が事実であるかは定かではありませんが、三成の性格をよく表した話しです。
秀吉のもとで様々な仕事をこなす
秀吉のもとで働くことになった三成は合戦ではそれほど目立った活躍をしませんでしたが、内政面で活躍しました。
秀吉が天下統一を果たすと、三成は太閤検地の実行役として全国をまわりました。
太閤検地は、田畑の広さや収穫量を調べて国ごとに石高とういう単位を割り振り、年貢の取り立てを正確に行うものです。
また朝鮮出兵では、実際に朝鮮にいかず、内地から指揮を担当します。しかし、戦いが長期化するにつれて日本軍の補給路が絶たれてしまうと、三成は明と講和することになります。
豊臣の武断派と対立する
述べたように三成は合戦を得意としておらず、内政に取り組んだ人物でありました。そのため合戦で武功をあげていた武断派の加藤清正や福島政則らからは嫌われていた。また三成は朝鮮出兵では実際に朝鮮に行っておらず、講和条件も微妙だったために武断派からの不満が高まりました。
そのため、三成は人気がありませんでした。そんな中、秀吉がなくなります。
天下分け目の関ヶ原の戦い!!
秀吉がなくなると天下を狙っていた徳川家康が豊臣家をほろぼそうと関ヶ原の戦いをしかます。
そこで三成は豊臣方の家臣を集めて家康に挑みます。このときに対立していた加藤清正らは徳川方についてしまうことになります。
また、普通ならば三成が総大将となるところですが、三成の盟友大谷義継が三成には人望がないから毛利輝元を総大将にしようといいました。三成はこれを聞き入れました。
よく知られているように関ヶ原の戦いでは三成は敗れ、かつての領国である近江の寺に逃げますが。結局、三成は捕まってしまいます。
まとめ
三成の処刑前に関する有名な話があります。
処刑前、三成は警護に向かって
「喉が渇いたので水が欲しい」といいます、
「水がないから柿を食え」といわれ、
「柿は毒だ」と、三成は拒否しました。
警護が笑いながら
「死ぬものが毒を気にしてどうする」というと、
「大志を持つものは最期まで命を惜しむ」といいました。
最期の最期まで戦意を失わなかったまっすぐな豊臣家に忠誠を尽くした戦国武将でした。