↑蘆名盛氏の肖像画
甲斐の武田信玄や、相模の北条氏康とともに戦った蘆名盛氏という戦国武将を紹介していきたいと思います。
それでは蘆名盛氏の生涯をみていきましょう!!
もくじ
蘆名盛氏の誕生
信玄や謙信を巻き込んで争う!!
禁酒令を発令!!
まとめ
蘆名盛氏の誕生
蘆名家はもともと鎌倉時代から会津(福島県)に住み、室町時代の後半ごろから独自の制度を作り出します。自身を会津の守護と名乗り戦国武将となりました。
1521年に蘆名盛氏は陸奥(福島県)に生まれました。かの有名な武田信玄と同い年です。信玄とここまでのネームバリューの差がでたのは、実力ではなく東北地方が中央から遠かったことが原因であるかと思います。東北地方の武将たちは地理的条件から天下を取るのは難しい地域でした。
信玄や謙信を巻き込んで争う!!
盛氏は金山開発を行い、商売を進めることで、領土内の財力を高めていきました。そうすることにより軍事力を高め、周辺の武将と戦をできるようになりました。
盛氏が家督を継いでからは次々と周辺武将に攻め込み、勝利していきました。しかし田村氏はなかなか打ち崩せまんでした。というのも常陸(茨城県)の佐竹氏からの援助を受けていたためです。そこで盛氏は武田信玄と北条氏康と同盟を結んで佐竹氏を攻め込みます。佐竹氏は上杉謙信と同盟をくんで盛氏に攻め込みました。有力大名を巻きこむ戦いは何年か続きました。田村氏の当主がなくなると一気に攻め込み、降伏させました。
その後も信玄と協力して謙信に攻め込んだり、伊達氏と争って二階堂氏を降伏させたりと、盛氏は勢力拡大に尽力しました。
禁酒令を発令!!
こうして蘆名家の最盛期を作った盛氏は一度息子盛興に家督をゆずって隠居しました。しかし、盛興が酒の席で毒殺されてしまいました。これに怒った盛氏は家臣に禁酒令を発令し、自身も一切お酒を飲まなくなりました。
後継者を失った盛氏は人質としていた二階堂氏の盛隆を養子とし、家督を継がせました。実際、実権は盛氏が握っていました。その後、盛氏が亡くなってからは勢力を維持できず、伊達政宗に攻め込まれ居城の会津若松城を失いました。つまり戦国大名の蘆名家は滅亡しました。
まとめ
以上が蘆名盛氏の生涯でした。盛氏は生涯1人の妻しか取りませんでした。これは戦国武将では珍しいことです。武将は息子を残すために多くの女性を迎えていたからです。盛氏も何人か息子を残せれば、蘆名家の命運も変わっていたかもしれません。
↑蘆名家の家紋