伊達政宗と争った奥州の大大名最上義光!!

↑最上義光の銅像

みなさんご存知の伊達政宗と争った最上義光。義光は最上家の隆盛を築き57万石の大大名へと成長させました。しかし義光がなくなったあとには、最上家は急に衰退してしまいました。

 

そんな最上義光の生涯をみていきましょう!!

 

もくじ

最上義光の誕生

東北の大名と争う!!

秀吉から家康に接近!?

まとめ

最上義光の誕生

最上義光の生まれた最上家は、足利将軍家の血筋斯波氏から派生した名門です。室町時代の初期、最上家は勢力を大きくしましたが、内輪揉めにより衰退しました。最上家はよく内輪揉めを起こします。

そんな最上家に、義光は1546年11代当主として生まれました。義光は幼い頃より体格がしっかりしていて、背も高かったといいます。また青年の頃には大きな岩を1人で動かすこともできたそうです。

義光は身体も強く優秀だったために、誰もが最上家を継ぐだろうと考えていました。しかし、父義守は義光の次男義時を可愛がっていたので義時を指名し、義光と義守、義時が対立しました。この対立は話合いでは決着がつかず、弟義時が反乱起こして義光を殺そうとします。そのため義光は義時を殺し、その家来も皆殺しにしました。

 

東北の大名と争う!!

義光は東北地方最大のライバル伊達家と仲を保つために、妹の義姫を伊達政宗の父輝宗に嫁がせました。この義姫がいい働きをし、最上家と伊達家が戦に発展しそうな時は和睦するようにはたらきかけました。その後も義光は本拠地山形城から伊達家上杉家などと戦いながら大名へと成長していきました。

 

秀吉から家康に接近!?

豊臣秀吉が小田原城を攻め込むときには豊臣方につきました。これにより24万石の大名となります。

その頃に義光最愛の娘駒姫を側室にしたいと、豊臣秀吉の甥秀次が申しでました。義光は何度も断っていましたが、秀次が何度もお願いするために、駒姫を側室にすることに決めました。しかし、秀次が秀吉に対して謀反の疑いがあると理由で、秀次、その妻子、また駒姫も処刑されてしまいます。

義光はこのときの恨みのためか、関ヶ原の戦いでは徳川家康に味方しました。そして上杉家と長谷堂城で戦い勝利し、57万石の大名となります。

義光が病に倒れたあとは、再び最上家内でお家騒動が起きます。騒動が何年も続いたために、最上家は江戸幕府から出羽(山形)の領地を没収されてしまいました。ここに大名最上家は終焉を迎えました。

↑最上家の家紋

まとめ

義光は民衆に対して非常に寛容でした。最上家はお家騒動が多かったですが、領内での一揆はほとんど起きていません。これは義光の人柄の良さからだと思います。

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