主君への裏切りで天下を取るがすぐに失った陶晴賢!!

↑陶晴賢の主君大内義隆の肖像画

陶晴賢は中国地方における本能寺の変を起こした裏切り者で、主君の大内義隆を大寧寺で討った人物です。しかし、4年ほどで毛利元就に敗れて自害しました。

 

ではなぜ陶晴賢は裏切ったのかを見ていきましょう!!

 

もくじ

陶晴賢の誕生

大内家ナンバー2!!

主君との反りがあわず裏切る!?

まとめ

 

陶晴賢の誕生

陶晴賢は1521年に大内氏の重臣陶興房の子として生まれました。晴賢は初め隆房と名乗っていましたが、大寧寺の変後晴賢と改名しています。父興房が病に倒れると19歳の若さで家督を継ぎました。

 

大内家ナンバー2!!

晴賢は大内家の軍事権を任さられる武断派武将として義隆を支えました。これは、義隆はあまり戦に興味がなく文芸などを愛したためです。また、晴賢が美少年だったことから義隆から寵愛を受けました。義隆はフランシスコザビエルが馬鹿にしたほどの男色家でもありました。

そんな中、大内家傘下の毛利元就の居城吉田郡山城尼子晴久によって包囲されました。晴賢は義隆に命を受け元就を助け、尼子軍に勝利しました。

この勝利に勢いづいた晴賢は尼子氏の居城月山富田城を攻めるように義隆に進言します。しかし元就が今は戦う時ではないと、両者の主張は対立します。義隆は晴賢の案を採用して月山富田城を攻め込みました。晴久の籠城によって長期戦に持ち込まれてしまったために、大内軍の士気は下がってしまい、撤退を余儀されます。この撤退途中に義隆の養子大内晴持が船の転覆によって亡くなってしまいました。義隆はこのことにかなりがっかりしてしまい、戦を嫌いになり、文芸に没頭しました。

 

主君との反りがあわず裏切る!?

月山富田城の撤退により義隆と晴賢の関係は冷え切っていました。また義隆が公家衆と遊ぶようになってしまい、武断派の晴賢としては納得できません。晴賢と義隆の対立が目立つようになります。

そんな時に事件はおきました。晴賢がついに謀反を起こしました。大内家の軍事権をすべて晴賢が担っていたので、義隆はひとたまりもありませんでした。義隆はそのまま自害しました。この事件後晴賢は大内家の実権を握り、大友宗麟の弟を大内家の当主として操りました。

それから4年後、晴賢はこれまで従っていた毛利元就と仲違いし、厳島で戦をすることになりました。晴賢は3万の兵力を有していたのに対し、元就はたった4千でした。しかし元就のたくみな謀により敗れてしまい、晴賢は自害しました。

↑毛利元就の肖像画

まとめ

陶晴賢もまた戦後時代の下剋上を表す人物です。戦後時代ではいつ家臣が主君を裏切り、一発逆転できるかが醍醐味であると思います。晴賢もまた天下を夢見て、一か八かの裏切りに出たと思います。

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