下剋上の始まりを作った北条早雲!!

北条早雲といえば下剋上ですよね!!

応仁の乱が起こって戦国時代が始まると北条早雲のような下剋上をする戦国武将がそこらで現れました。最初に下剋上をしたといってもいい武将が北条早雲です。

下剋上の乱世で生きた早雲の生涯を見ていきましょう!!

 

もくじ

北条早雲の誕生

これぞ下剋上!!

実力のないものは蹴散らしてしまえ!!

まとめ

 

北条早雲の誕生

北条早雲の出生については謎につつまれており、さまざまな説があります。

以前は一介の浪人生まれで、実力によって下剋上を果たし戦国大名になったとされていました。

しかし、最近の研究では室町幕府の要職を務める名門伊勢氏の生まれではないかと言われていますが、本当のところはわかっていません。

また、北条早雲はのちの人がつけた名前で、早雲は一度も北条早雲とは名乗っていません。早雲は自身を伊勢新九郎盛時と名乗りました。出家してからは伊勢宗瑞または、早雲庵宗瑞と名乗ったと言われています。北条という名は早雲の息子氏綱が鎌倉の執権北条氏にならって名乗りました。

 

これぞ下剋上!!

早雲は幕府の役人生まれでありましたが、中央政界での出世はあきらめたと考えられます。なぜなら早雲が30歳くらいの時に応仁の乱が勃発してしまいます。早雲は幕府の地位が落ちたことを目の当たりにしたのです。

そこで早雲は関東地方に目を向け、妹を今川家に嫁がせて今川家に乗り込みました。早雲が今川家に乗り込んだときは、今川家は家督争いのまっただなかでありました。そこで甥の今川氏親を立てて、争いを収めました。これにより早雲は今川家の守護代格を与えられました。

なお早雲がたてた今川氏親の息子は織田信長によって討たれたあの今川義元です。

 

実力のないものは蹴散らしてしまえ!!

早雲が還暦を迎えた頃、早雲は今川家の兵を借りて伊豆の堀越御所を襲撃しました。

(堀越公方は足利将軍家の一族というだけで、実力はありませんでした。)

これこそが有名な伊豆討ちです。一介の武将が国を奪ったのは早雲がはじめてでしたので、早雲が下剋上の代名詞となりました。

その後韮山城を居城として、相模(神奈川県)に攻め込みました。

まずは、相模の小田原城城主大森藤頼に丁寧な態度をとって接近します。これをみた藤頼は安心し、油断していました。早雲は油断した藤頼に一気に攻め込み、小田原城を奪還しました。伝説では、1000頭もの牛の角に松明をくくりつけて押し寄せた「火牛攻め」が有名です。その後北条家は、100年にわたって奪還した小田原城を居城としました。

その後新井城の三浦氏を滅ぼすと、相模を統一することに成功しました。このときなんと80歳をこえていたそうです。

 

まとめ

北条早雲もまた下剋上に生きた戦国武将でした。そのため、厳しい人であったのではないかと思われがちですが、農民からは慕われていました。というのも、政治にも力をいれて農民の年貢を軽くしました。しかし、自身は城内では水の無駄遣いを取り締まるなど倹約家でもありました。

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