盟友秀吉につき加賀百万石の礎を築いた前田利家!!

前田利家といえば槍の名手や正室まつとのおしどり夫婦が有名な戦国武将ですよね。

また天下人秀吉との仲も良く、豊臣家繁栄を考えた武将でもありました。

 

そんな前田利家の生き様をみていきましょう!!

 

もくじ

前田利家の誕生

友か?上司か?利家の決断は?

豊臣家の繁栄に力をつくす

まとめ

 

前田利家の誕生

前田利家は1539年に尾張に生まれました。幼少名は犬千代といい、成人したころの利家は身長180cmあったとも言われているほどの大男です。また喧嘩ぱっやく、派手好きで、6mもある槍を持ち歩いていたので「槍の又左」と呼ばれていました。

利家は秀吉とともに尾張おおうつけ織田信長と仕え、信長の寵愛を受けていました。このときから利家と秀吉は同じ終わり出身であったことから仲がよく、生涯家族ぐるみの付き合いをしていくことになります。

 

友か?上司か?利家の決断は?

1582年に本能寺の変が起き、信長は亡くなりました。これにより友の秀吉主君の柴田勝家が信長の後継者争いを始めます。

その後秀吉と勝家が賤ヶ岳の戦いを起こします。このとき利家はどちらにつけばよいか悩ましく、結局戦うことなく撤退してしまいました。これが決定的となり勝家は敗北してしまいました。

その後は秀吉に加賀(石川県)、能登(石川県)、越中(富山県)を与えられ、生涯ついていくことになります。利家が秀吉になびくことがなければ、加賀百万石の前田家は存在しなかったので、英断であったといえます。

 

豊臣家の繁栄に力をつくす

秀吉が1598年になくなると豊臣家を家康からまもる唯一無二の存在であることは間違いありませんでした。利家は自分でもそのことをしっかりと理解していたようで、財産分与を細かく指定しました。また秀吉の息子秀頼の守り役となりました。

利家は1599年に亡くなりましたが、最期まで豊臣家を思っていました。それを示す、こんな逸話が残っています。

利家の死の直前に前田邸を家康が見舞いに訪れたことがありました。このときすでに前田利家の病状はすでに悪化していましたが、利家は布団の中に短刀を忍ばせていまいした。これは家康が秀頼を軽んじるような言動をした場合には即座に刺し殺す準備はできていました。まさに戦国時代の生き残りを表す逸話です。

 

まとめ

利家は正室のまつと非常に仲がよく合計11人もの子供を授かりました。まつは読み書きそろばんのできる賢い女性でした。また秀吉の正室ねねとも仲がよく、利家と秀吉の関係をとりもちました。

こうした、周りの人物にめぐまれた前田利家は100万石の大大名となりました。

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