名門朝倉家を守りきれなかった11代目朝倉義景!!

織田信長によって滅ぼされてしまった武将の一人でもある戦国武将朝倉義景をご存知でしょうか?

朝倉家は将軍家とも繋がりのある名門であり、越前(福井)を中心におさめた戦国武将であります。

では、なぜ朝倉義景が信長によって滅ぼされたのかを見ていきましょう!!

 

もくじ

朝倉義景の誕生

将軍を上洛させるチャンスをのがす!?

信長に滅ぼされる!!

まとめ

 

朝倉義景の誕生

朝倉氏はもともと但馬(兵庫県)でおこり、「日下部」の姓を名乗っており、この当時は名門斯波家に従っていました。斯波家に越前の守護を求められてから「朝倉」の姓に変更しました。以降朝倉の姓は11代目義景まで続きました。

応仁の乱が起こると当初は西軍の山名宗全に属していましたが、翻って東軍の細川勝元につきました。この動乱につけ込み朝倉家は越前を支配する様になりました。7代目孝景のときに一乗谷に本拠地を移し、分国法を定めるなど、戦国大名となります。また、朝倉家は内政に力をいれ民衆からの人気も高い一族でした。

そんな朝倉家に義景は1533年に生まれました。16歳で家督をつぐと将軍足利義輝から「」の字を賜って義景と名乗りました。

 

将軍を上洛させるチャンスをのがす!?

若き義景は朝倉宗滴の助けをかりて勢力を広げることに成功します。しかし力強かった宗滴がなくなってしまい、自ら取り仕切ることになります。

名門朝倉家の元には京都から公家や僧侶が押し寄せてきました。その中に暗殺された足利義輝の弟義秋もいました。はじめ、義景は義秋の元服を取り仕切ったりして歓迎していました。しかし、越前で一揆が起きたことや義景の妻と子が病死したことなどから将軍を疎ましく思うようになります。このころの義景には運がついていませんでした。

そうした背景から義昭(元服後義昭に改名)は信長に頼るようになります。そうして信長が義昭を上洛させたのでした。

 

信長に滅ぼされる!!

織田信長が上洛したのちに、義景と信長は対立するようになります。信長は義景に対して降伏するように命じますが、義景は拒否しました。これにより、義景は信長に攻め込まれますが、浅井長政の助けにより危機を凌ぎます。

その後、姉川の戦いで信長に敗れてしまいますが、武田信玄が上洛しようとした時に信長はあわてて美濃(岐阜県)に逃げ出しました。これを義景が攻め込めばよいものの、大雪を理由に断念しチャンスを逃してしまいました。このことには信玄もがっかりしたようでした。

チャンスを逃してしまった義景は1573年に信長によって一乗谷を攻め込まれ自害しました。

 

まとめ

朝倉義景は名門朝倉家に生まれましたが、うまく指揮を取ることができず一族を滅亡させてしまいました。下剋上の戦国乱世においては、チャンスを逃してしまうと生き残っていけないように思えます。

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