尼子経久という戦国武将を聞いたことがない人も多いと思います。
ですが、経久は山陰地方を中心に領土を広げ、「11ヶ国の太守」といわれるほどの戦国大名でした。
そんな尼子経久の生涯を見ていきましょう!!
もくじ
尼子経久の誕生
追い出された月山富田城を取り返す!!
11ヵ国の太守!!
まとめ
尼子経久の誕生
尼子経久は1478年、出雲(島根県)に守護代(守護に代わって土地を治める人)尼子清定の子として生まれました。経久の生まれた尼子氏はもともと近江(滋賀県)の守護代でした。その後仕えていた京極家が出雲守護となったために、尼子氏は出雲に移り月山富田城を拠点としました。そのため経久は何度か主君京極政経に人質のような扱いを受けて、何度か京都に上洛しました。
追い出された月山富田城を取り返す!!
1478年に家督を継いだ経久は京極家に反発し始めます。寺や神社の領地を奪い、美保関(大きな関所)の利益を独り占めしたり、幕府に納税しなかったりしました。これに激怒した政経はなんと経久を月山富田城から追放し、守護代をやめさせます。
しかし2年後の元日、経久は月山富田城に奇襲攻撃しかけて取り返しました。その後、経久は争っていた寺社と和解して、出雲を統一することに成功します。
11ヵ国の太守!!
経久は月山富田城を取り返し、また政経が亡くなったことにより、中国地方で勢力を拡大し続けました。その勢力は11ヵ国の領主になるほどでした。しかし長男政久が戦死したり、三男興久が領地の不満から反乱を起こすが失敗して自害したりと、内政は不安定でした。そんな中経久は孫の晴久に家督を譲ると隠居しました。
晴久は吉田郡山城の戦いで毛利元就に敗れるなどうまくいかず、急に病でなくなってしまいました。後を継いだ義久は元就に月山富田城を攻められると、城を明け渡しました。つまり、戦国大名尼子氏は滅びてしまいました。その後、尼子氏は毛利家の傘下に入り幕末まで存命しました。
まとめ
以上が尼子経久の生涯でした。経久は賢く謀に長けており、下剋上を成し遂げた戦後武将でした。また、家臣に寛容で無欲な人であったと伝えられています。この辺りは同じ時期に関東地方で下剋上を成し遂げた北条早雲と似ています。