大友宗麟というキリシタン大名をご存知でしょうか?
宗麟の大友家は名門で鎌倉時代からおり、大友家の最盛期を築いた武将こそ大友宗麟なのです。と同時に、ワガママ放題酒好き女好きの武将でありました。
そんなキリシタン大名大友宗麟の生涯を見ていきましょう!!
もくじ
大友宗麟の誕生
九州王として君臨
キリスト教王国を夢みる
まとめ
大友宗麟の誕生
大友宗麟は1530年に豊後(大分県)に大友義鑑の嫡男として生まれました。「宗麟」は法号であり、実名は「義鎮」といいます。
宗麟は子どものころから気性が荒く問題児であり、人望も少なかったことから父義鑑から嫌われていました。義鑑は宗麟ではなく三男の塩市丸を溺愛していたため、塩市丸を大友家当主としようとしました。しかし、これを宗麟派の家臣に勘づかれてしまい、義鑑や塩市丸は殺されてしまいました。まさに戦国乱世を映し出すような出来事です。その後無事に宗麟が家督を継ぎます。
九州王として君臨
1551年に大内義隆が陶晴賢の裏切りによって殺されるました。すると宗麟は、弟大友晴房を、晴賢との密約で大内氏に継がせます。これにより、毛利元就によって大内氏が滅ぼされるまでの間に宗麟は、大内氏の領土であった、豊前筑前福岡県大分県を攻略し始めました。
ですが、元就の謀略に苦しめられてうまくいかず、1570年の今山の戦いで元就と手を組んだ龍造寺隆信に大敗しました。
しかし、元就が亡くなったことで、北九州の勢力が宗麟に従うようになり、九州6カ国を支配することに成功しました。当時の宣教師たちからは「九州王」と呼ばれました。
キリスト教布教を手伝う
宗麟は戦があまり好きではなかったのか、43歳で家督を息子義統にゆずります。その後はキリスト教信仰に目覚め洗礼受けました。
なおフランシスコザビエルを府内(大分県)に招いたときは、22歳の宗麟にはささらなかったようです。
宗麟は宣教師の布教活動を支援する代わりに宣教師から軍需品をもらっていました。こうすることでキリシタンでない大名と互角に渡り合えました。実際、宣教師は反キリスト教の毛利家や島津家には貿易を一切していません。つまり宗麟と宣教師の利害は一致していました。
まとめ
宗麟はキリスト教の国を作るために日向(宮崎県)に侵攻しますが、耳川の戦いで島津義弘に大敗しました。その後、国内は荒れてしまい大友氏は滅亡しそうになります。宗麟は大坂まで出向き豊臣秀吉に助けを乞いなんとか豊後一国だけをものにしますが、亡くなってしまいました。
最期はむなしく九州王としての威厳はありませんでした。