大内義隆とは周防(山口県)を中心に活躍した戦後武将で、あの毛利元就を苦しめた人物であります。
義隆は西国の本能寺ともいわれる「大寧寺の変」で家臣に裏切られ亡くなってしまいました。
そんな大内義隆の生涯を見ていきましょう!!
もくじ
大内義隆の誕生
尼子経久と毛利元就を相手する
家臣に裏切られる!?
まとめ
大内義隆の誕生
大内家は名門家であり、鎌倉幕府を開いた源頼朝から周防を任せられ、また室町時代の南北朝の動乱を利用して大内家を繁栄させていました。また大内家は先祖が渡来人であることもあって明や朝鮮との貿易で富を得ていました。そして周防に大内氏館を建て、本拠地としました。これは京都に並ぶほどの都であったと言われています。
そんな大内家に大内義隆は1507年、周防に生まれました。義隆は父義興とともに何度か尼子経久に合戦を繰り広げます。その後義隆が家督を継ぐと中国地方や北九州6ヵ国の守護となりました。
尼子と毛利を相手する
大内家の傘下であった毛利元就の居城吉田郡山城が尼子家に攻められました。そのため義隆は家臣の陶晴賢を送り、尼子家に勝利します。その後安芸広島県の武田氏を破り、安芸を手に入れます。
出雲(島根県)の尼子家を滅ぼすために尼子家の居城月山富田城を攻め込みます。しかしこの合戦が長期化し、味方の士気が下がってきたために、義隆は引き上げて撤退します。撤退中に尼子家の猛追にあい、養子の晴持を失ってしまいました。
家臣に裏切られる!?
この合戦で養子の晴持を失った義隆は戦をするのがいやになり、かねてから好きだった文芸にはまるようになりした。義隆は武将というよりは文化人気質だったわけです。こうした義隆の文化を愛する性格により、山口は「西の京」といわれるほどの文化都市となりました。
しかし、武断派家臣の陶晴賢はこのことをよく思っていませんでした。大内家の軍事権を担っていた晴賢は謀反を起こし、主君義隆を大寧寺で打ちました。これが西の本能寺ともいわれる大寧寺の変です。義隆は自害しなくなりました。
まとめ
義隆が亡くなったあとは陶晴賢に乗っ取られますが、すぐに毛利元就によって滅ぼされました。ここに中国地方の覇者大内家は滅ぼされました。
また義隆は男色で、フランシスコザビエルが義隆のところに訪れたときに、ザビエルに男色を馬鹿にされたといわれています。